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小坊方さん STAP細胞(万能細胞)の発見者 かっぽう着姿で研究 [ニュース]

理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(神戸市)のチームが、「弱酸性の刺激を与えるだけ」という簡単な方法であらゆる細胞に分化できる万能細胞(STAP細胞)を作ることに成功し、話題となっている。
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小野田寛郎さん死去 終戦知らずルバング島に30年間潜伏 [ニュース]

第2次世界大戦中に旧日本軍の陸軍少尉として派遣されたフィリピン ルバング島の山中で終戦を知らずに約30年近く過ごした小野田寛郎(おのだ ひろお)さんが、1月16日、肺炎のため東京都内の病院で亡くなった。91歳だった。

1922年(大正11年)3月19日、和歌山県海草郡亀川村(現・海南市)にて小野田家の四男として生まれる。
旧制海南中学校時代は剣道選手として活躍した。中学校卒業後は民間の貿易会社「田島洋行」に就職し、中華民国の漢口支店勤務となり中国語を習得した。

上海で働いていた1942年12月、満20歳の徴兵検査を受け、本籍のある和歌山歩兵第61連隊に現役兵として入営。
同時に61i留守部隊をもとに編成された歩兵第218連隊に転属、218iにて従軍中に甲種幹部候補生を志願しこれに合格。1944年1月に久留米第一陸軍予備士官学校へ入校する。
卒業後、中国語や英語が堪能だったことから選抜され、1944年9月に陸軍中野学校二俣分校に入校し、主に遊撃戦の教育を受けた。1944年11月に事実上の卒業後、見習士官(予備陸軍曹長)を経て予備陸軍少尉に任官。

1944年12月、フィリピン防衛戦を担当する第14方面軍情報部付となり、遊撃戦指導の任務を与えられフィリピンに派遣。
派遣にあたり、高級司令部が持っている情報は全て教えられ、日本が占領された後も連合国軍と戦い続けるとの計画であった。
1944年12月31日、ルバング島に着任。
着任後は長期持久体制の準備に努めるが、島内の日本軍の一部の隊には引き上げ命令が出ていたため戦意が低かったことと小野田には指揮権がないため相手にされず、1945年2月28日のアメリカ軍約1個大隊上陸後、日本軍各隊はアメリカ軍艦艇の艦砲射撃などの大火力に簡単に撃破され山間部に逃げ込んだ。

1945年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかった為、赤津勇一陸軍一等兵(1949年9月逃亡1950年6月投降)、島田庄一陸軍伍長(1954年5月7日射殺され戦死)、小塚金七陸軍上等兵(1972年10月19日同じく射殺され戦死)と共に戦闘を継続し、ルバング島が再び日本軍の制圧下に戻った時の為に密林に篭り情報収集や諜報活動を続ける決意をする。
日本では1945年9月に戦死公報を出されたが、1950年に赤津が投降したことで、小野田ら3人の残留日本兵が存在することが判明する。

フィリピンは戦後間もなくアメリカの植民地支配からの独立を果たしたものの、両国の協定によりアメリカ軍はフィリピン国内にとどまることとなった。
これを「アメリカ軍によるフィリピン支配の継続」、またフィリピン政府を「アメリカの傀儡」と解釈した小野田はその後も持久戦により在比アメリカ軍に挑み続け、島内にあったアメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した。30年間継続した戦闘行為によって、フィリピン警察軍、在比アメリカ軍の兵士を30人以上殺傷した。

また、捜索隊が残した日本の新聞や雑誌で当時の日本の情勢についてもかなりの情報を得ていた。
捜索隊はおそらく現在の情勢を知らずに小野田が戦闘を継続していると考え、あえて新聞や雑誌を残していったのだが、皇太子成婚の様子を伝える新聞のカラー写真や、1964年東京オリンピックや東海道新幹線等の記事によって、小野田は日本が繁栄している事は知っていた。
しかし、士官教育を受けた小野田はその日本はアメリカの傀儡政権であり、満州に亡命政権があると考えていた。小野田は投降を呼びかけられていても、二俣分校での教育を思い出し、終戦を欺瞞であり、敵対放送に過ぎないと思っていた。

また朝鮮戦争へ向かうアメリカ軍機を見掛けると、当初の予定通り亡命政権の反撃が開始され、フィリピン国内のアメリカ軍基地からベトナム戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけると、いよいよアメリカは日本に追い詰められたと信じた。このように小野田にもたらされた断片的な情報と戦前所属した諜報機関での作戦行動予定との間に矛盾が起きなかった為に、30年間も戦い続ける結果となった。

帰国の半年後、帰国後に結婚した妻の町枝と共に次兄のいるブラジルに移住して小野田牧場の経営を開始。10年をかけて牧場経営を成功させた。
その後、「凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛めた」として『祖国のため健全な日本人を育成したい』と、サバイバル塾『小野田自然塾』を主宰し、フィリピン・ルバング島での経験を元に、逞しい日本人を育成するとして、高齢ながらも日本とブラジルを往復しながら講演会や野営等の活動を行っていた。

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